中学3年生の娘は、中学1年生の入学式に行ったきり、不登校が続いている。
「高校生にならないかもしれない」という状況だが、
勉強というベクトルは止まっていても、娘の日常は少しずつ動き始めている。
娘が暇さえあれば触っているのは、タブレットでのデジタルイラスト制作とピアノだ。
イラストは、何を描いているのか親の私にも絶対に見せてくれない。
部屋のすみで、コソコソと描いている。
どこかの投稿サイトにアップロードしている形跡もないので、
誰かに見せるためではなく、閉じた世界でひたすら自分のために描いているのだと思う。
一方のピアノは、3歳から教室に通っていたものの、昨年は1年ほど通えない時期が続いていた。
それが今年に入ってから、また少しずつ通えるようになった。
世間一般の「やらなくてはいけないこと」から離れ、
損得も評価も関係なく何かに没頭する時間。
今の娘にとっては、そういう閉じた時間が、
エネルギーを回復するために何よりも必要なプロセスなのだと感じている。
「好きなことへの没頭」は、心が回復に向かっているサイン
不登校について書かれた本や、これまでの体験談などを読んでいると、不登校の子どもの心の回復には、一般的にいくつか段階があると言われているそうだ。
- 心が大きく混乱する時期
- エネルギーを溜めるお休みの時期
- 少しずつ動き出す時期
という段階をたどると言われている。
心のエネルギーが枯渇したお休みの時期を脱し、
次の「少しずつ動き出す時期」に向かう際、多くの子どもに見られる共通のサインがあるという。
それは、「誰のためでもない、自分の好きなこと・安心できる世界に没頭し始めること」。
この段階の特徴として、臨床心理の研究でもよく指摘されているのが以下の点だ。
- 他者の評価(SNSのいいね、学校の成績など)を介さない自己表現をすること
- 安全なテリトリー(自分の部屋など)の中で、能動的に時間を忘れられる対象を持つこと
- 「やらねばならないこと」ではなく、「自分が心地よいこと」でエネルギーの自家発電を始めること
傷ついた心を一番安全な場所で休ませることで、まずはすり減った自己肯定感を自分の好きな世界で満たしていく。
親や外の目をシャットアウトしてコソコソ描くのも、誰かに評価されて否定されるリスクから、生まれたての表現欲求を無意識に守っている防衛反応なのだと思う。
ピアノの再開にしても、イラストへの没頭にしても、
これまでの不登校のプロセスと照らし合わせてみれば、それは「現実逃避」や「怠け」ではなく、
すり減った心が自発的に動き出すための、れっきとした回復のステップだと受け止めている。
「高校に行くこと」よりも「自分で稼ぐ力」が先?
そんな娘の口から、最近になって前向きな言葉が出るようになった。
「来年くらいまでに、自分でお金を稼げるようになりたい」
「お金を稼げるようになったら、もっと自信が持てる気がする」
私が以前、
「要はどんな形であれ、自分でご飯を食べて暮らしていけるようになれば、それでいいんだよ」
と話したことが頭に残っていたのかもしれない。
自分のスキルで誰かの役に立ち、自分の力で立つことを通して、
失ってしまった自己肯定感を取り戻したい――
そんな前向きな意志なら親として頼もしいけれど、もちろん先行きなんてまだ誰にも分からない。
世間一般の常識から見れば、
「稼ぐうんぬんの前に、まずは高校を出てからでしょ」と言われるのがオチだろう。
かつての私もそうだった。
小学校や中学校でつまずいても、
高校や大学に進めばどこかで軌道修正できるんじゃないか、と期待していた時期がある。
けれど、この1年の娘の姿を間近で見ていて、痛感したことがある。
娘は、根本的に社会との関わり方や心の育ち方のペースが
「一般的な標準」とは違うのだ。
それを無理やり「普通のやり方」という枠にはめようとすれば、
それだけで莫大なエネルギーを消耗し、
フリーズして動けなくなってしまう。
それは娘にとって、あまりにも不毛で不幸せなことなんじゃないか。
世間が言う「正しい順序」よりも、
今の娘にとって本当に必要なのは、
自分が興味を持ってできることから少しずつ「自分にもできた」という
小さな自信と手応えを得ることのほうなのだと思う。
もし後から「やっぱり学びたい」と思ったなら、
1,2年遅れで通信学校に行ってもいいし、
高認(高等学校卒業程度認定試験)を受けてもいいし、道は開ける。
先行きなんて見えなくて、親としての不安が消えたわけじゃない。
けれど、私はそう信じたいし、娘ならきっと大丈夫だという予感も、どこかでしている。

