月見バーガーと高校見学のすれ違い——ピアノのドタキャンに揺れる休日の記録

隔週のペースで、娘がピアノを休んでいる。

家では週に5日くらい、気が向けばピアノを弾いている。
けれど、片道1時間かかる教室へ行く日になると、体が動かなくなる。

そのピアノ教室に行く日の前日、お月見が近い夕暮れ時のことだった。

「月見バーガーがどうしても食べたい」と娘が言うので、2人で散歩がてら歩いてハンバーガーショップへ向かった。

月見バーガーか、と思ったとき、ふと昔のことが頭に浮かんだ。

娘が小さかった頃、私は季節を感じて欲しくて、行事のたびに何かしらお祝いをしていた。
お月見もそのひとつで、バーガーではなく、お団子を飾って食べた。
外を見上げて、2人で月を眺めた。

今年の空は曇っていて、月はどこにも見えなかった。

秋の風が少しひんやりとしていて、並んで歩く道すがら、自転車に子どもを乗せたお母さんとすれ違った。

「今日楽しかったねー、帰ってご飯作らなきゃあ」と笑い合う親子の声が耳に届く。

うちも、幼稚園に入る前はあんなふうだった。
自転車の前や後ろに娘を乗せて、公園へ行ったり、何気ないおしゃべりをしたり。
無邪気で穏やかだったあの頃の日常が、思い出された。

懐かしくて、私と娘もどこにでもある風景だったんだなと思う。

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翌朝、駅へ向かう道ですれ違った景色

そして、ピアノの日の朝。

最寄り駅へ向かって歩いていると、何組もの「中学生と親」の2人組とすれ違った。

カバンを持って、少し改まった顔で歩く親子たち。駅の近くにある高校へ、学校説明会か見学に行く途中らしかった。

同年代の子どもたちが、親と一緒に未来の選択肢を見に行っている。

対して、うちはというと、高校の見学にも説明会にも、一度も行けていない。

行かせようとすること自体が、今の娘には大きなストレスになる。

本人が自分から言い出すのを待つしかなくて、負担にならない程度に時々声をかけてみるけれど、やっぱり無理そうで、それ以上は踏み込めない。

前日の月見バーガーの夕暮れと、今目の前を通り過ぎていく高校見学の親子たち。

そして、隣にいる娘と私。

どこかシュールで、現実なんだけれど現実じゃないような、不思議な感覚だった。

出掛けのドタキャンと、綺麗事では済まない親のストレス

駅に着く頃、あるいは電車に乗る直前になって、娘の足が止まる。

「具合が悪くなったなら帰ろう」
「休むなら、先生には自分でLINEしてね」

そう声をかけると、娘はぽつりと言った。
「電車に乗っていると、家から離れて戻れなくなるような気がして不安」
そう言って、結局その日も行くことができなかった。

学校にも行けず、外の世界とつながることも難しい今、いちばん生きづらくてしんどいのは娘本人だ。
それはわかっている。

けれど、出掛けのタイミングで毎回ドタキャンされる親の側の徒労感も、ボディブローのように効いてくる。

昨日、月見バーガーは買いに行けたのに。

行きたいところにはちゃんと足を運べるのに、やっぱりピアノは「本当に行きたいこと」には入っていないんじゃないか。そんな思いが頭をよぎる。

頭では、病気や特性のようなものだと割り切っているつもりだ。

それでも、幼い頃からずっと同じようなフォローを何年も重ねてきて、
「まさか中3になるまで、こんな状況が続いているとは思わなかったな」
と、ふっと途方に暮れてしまう自分がいる。

時間が決まっていて、先生という他者が関わる予定のドタキャンは、相手にも迷惑がかかるから本当に胃が痛い。

家に戻ったあと、娘は結局、自分からは先生にLINEを送ろうとしなかった。

気まずいのも、連絡するのが怖いのもわかる。
行けないこと自体は、もう仕方がない。

けれど、社会と関わっていく以上、行けなかったときの連絡だけは絶対に必須だ。

「連絡だけは、自分でちゃんと入れなさい」
思わず語気が強くなってしまった。

もっと冷静に言えばよかったと思うんだけれど、何回か気持ちを抑えた末のこれだと難しい。

隔週どころか、今回は2週連続のドタキャンだった。

「そんなに辛くて足が向かないなら、一度お休みするっていうのも手なんだよ」
引き止めるでもなく、突き放すでもなく、そう声をかけたときだった。

娘は、小さくこう言った。
「今やめたら、なんにもなくなる」
その言葉に、胸が詰まった。

生きづらいことこの上ない。
もっと楽観的な考え方が大半なのに。

鈍感さっていうのは大事だと娘を見ていると思う。

娘は本当に、ピアノに行きたいのだろうか

今やめたら、何もなくなる。

彼女にとってピアノは、もう「楽しいお稽古」ではなく、自分が自分であるために手放してはいけない、最後の命綱なのだ。

そして、その翌週。

娘は顔を青ざめさせながら、なんとか踏ん張ってピアノへ行った。

行けた。

けれど、その青い横顔を見つめながら、私はちっとも晴れやかな気持ちにはなれなかった。

「行けたから良かったね」なんて、思えなかった。

絵は、毎日スキあらば描いている。
誰に頼まれたわけでもなく、タブレットに向かいペンを走らせている。

けれどピアノは、家では弾くものの、教室へ行くとなると強い不安に襲われて動けなくなる。

彼女を動かしたのは「ピアノが好き」という気持ちではなく、「これを手放したら本当に居場所がなくなる」という恐怖だったんじゃないか。

娘の心をここまで追い詰めているものの正体は何なんだろう。

――けれど、ひとつだけ。
こんな切ないやり取りの中でも、彼女の確かな成長を感じた瞬間があった。

「電車に乗ると、家から離れて戻れなくなる気がして不安」
「今やめたら、なんにもなくなる」
昔の娘なら、ただ黙り込んだり、自分の中に抱え込んで塞ぎ込んでいたかもしれない。

それが、たとえ痛々しい本音であっても、自分の言葉でちゃんと私に差し出せるようになった。
自分の気持ちを言葉にして伝えられるようになったこと。
それだけは、本当に良かったなと思う。

彼女が抱えている不安の正体と、これからどう向き合っていけばいいのか。

親としての模索は、まだ続いている。

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